今朝(7日)は西武線多磨駅であいさつ、午前中生活相談、午後、一般質問準備など。さて今朝のしんぶん赤旗の4面には、新聞労連主催による新聞奨学生の実態を告発するシンポジウムの記事が掲載されています。記事によれば「集金がないコースを選択したのに、集金を強要され、賃金も支払われない」「突然、拡張(新聞の営業)をやるように言われ、授業に出られなくなる」のなどの相談事例を紹介。
シンポに参加した法政大学の上西充子教授は「新聞奨学生の募集は労働条件がはっきりしない。実質的に職業紹介事業になっているので、労働条件の明示が必要だ」とし、新聞通信合同ユニオンの加藤書記長は「奨学制度には、新聞発行本社、奨学会、販売店がかかわっている。本社が責任をもつようにすべき」と発言されています。
実は私自身も大学の1年と2年の時、日経新聞の新聞奨学生として勤労学生をしていた経験があります。豊島区の要町にある日経新聞の販売店に住み込みをし、朝3時に起きて朝刊の配達(部数は250~270部程度)。6時には配達を終えて、朝ごはんをとり大学に行き(夕ご飯もありました)、夕方4時までには、店にもどってきて夕刊を配達。確か週1日の休みは保障されていたと思いますが、新聞代の集金は毎月25日から行い、月初めまでには終わらせていました。新聞の営業拡販こそありませんでしたが、こんな毎日でしたので、朝刊の配達が終わったら「あと9時間後には夕刊の配達なんだな・・」と、毎日が時間の圧迫感を感じながら過ごしていた記憶あります。また部屋は店の2階に個室があり、間取りは3畳もない小さな部屋で夏は暑く、冬は寒い毎日。いっしょに働いていた仲間は「まるで『独房』のようだな」と笑いながら、冗談を言っていた記憶があります。
また小遣いとして、毎月7~8万もらっていた記憶があり、日経新聞社から1年間50万円の奨学金が保障されていました。私が住み込みをしていた店には、12~13人の大学生や予備校生の仲間もいて、私は2年間、一応単位はすべて取得はしました。予備校生も大変優秀な方も多くいて、あの過酷な労働のさなかに受験勉強して、有名私大などに合格した予備校生もいました。
あれから26年の歳月が経ちますが、今日の赤旗の記事を見て、自分が働いていた時代よりも、さらに新聞奨学生の勤務状態が悪化していることに、胸を痛める思いです。私が新聞奨学生だったのは平成元年と2年の時、バブル経済絶好調の時代。新聞奨学生などあまりいませんでしたが、今は格差と貧困の時代のなか、働きながら学校に通う学生も多いのではないでしょうか。わたしはあらためて社会の貧困、そして未来ある若者に対して将来を展望できる、政治の責任を感じるものです。